ある日の出来事だった
俺は新宿へと向かう電車を一人ホームで待っていた。
その時だった。
一人の若い男性が歩いて来るのを見た。
その男性は右足を若干引きずるようにしながら歩いていた。
その若い男性と目が合う。
彼はニコッと微笑み、
スッと俺の目の前に携帯電話を差し出した。
差し出された携帯の画面には、
『驚かせて ごめなさい ぼくは 耳が聞こえません』
突然のことに思わず驚いて、
彼の顔をまじまじと見てしまう。
彼は少しバツの悪そうな表情を浮かべながらも
再び携帯のボタンを打ち始めると、
『新宿には こちで良いですか?』
再び携帯の画面をこちらに差し出す。
彼の目を見つめながら、笑顔でコクンとうなづくと、
彼はホッとしたような笑顔を返した。
昼下がりの電車は空いていた。
『となりに座って良いですか』
またも笑顔でうなづくと、
お互い黙って携帯の画面を見せ合う、
傍から見たらとても奇妙ながらも、
それでいて濃密なやりとりがそこにあった。
聞けば彼は、
新宿へと久しぶりに『お父さんに 会いに行きます』
とのことであった。
久しぶりの再会だし、嬉しくも緊張感でいっぱいなのだろう。
しかし、
それと同時に彼の表情から、
その家庭環境の複雑さを思わせてもいた。
俺は、それ以上そのことに深入りするのは止め、話を変える。
『好きな食べ物はなんですか?僕はラーメンが好きです』
なんてつまらない、
そして気の利かないセリフだろう。
しかし、彼は穏やかな笑顔で『ぼくも ラーメンだいすきですよ』
この奇妙なやりとりにちょっとおかしくなりつつも、
電車の中の携帯って常に悪く思われてるけど、
こうして良いこともあるんだな…そう思った。
そして、そのことを携帯に打ち、彼に見せて一緒に笑った。
そんなやりとりをしながら、
電車は終点の新宿へと到着した。
『またあえると いいですね』
『きっとまた会えますよ』
別れ際、彼はやっぱり穏やかな笑顔を浮かべながら、
新宿駅の雑踏に消えて行った。
この後お父さんと一緒に、
大好きなラーメンを食べるかも知れない。
携帯を握り締め、
用事を済ませたら俺もラーメンを食べに行こうかな。
そう思ったある日の午後だった。