ある日の電車内の光景
その日、自分はとあるお笑いのライブを観に、
横浜へと足を運んでいた。
そして、お目当てのライブも見終わり、
家路へと向かう電車の中にあった。
そのライブ自体は、そんなに面白かった〜という内容じゃなく、
むしろ期待したほどじゃなかったな…などと思いつつ、
座ってボーッと車窓から流れる景色を見るともなしに眺めてると、
ふとある男女の会話が耳に飛び込んできた。
「ん?」
と、思った。
ヒョッと首を左舷方向へとねじ曲げ見ると、
そのカップルは、年の頃は20代半ば…という感じで、
特に「ん?」と思ったのはその会話の中身であった。
その二人は、お互いがお互いに敬語で話をしていたのである。
その二人は、実にさわやかで初々しい感じが
全身からみなぎっていて、とても好感が持てる二人だった。
男性の印象は、とにかく真面目そうで、
きちんとジャケットを着込み、
とにかく今出来る精一杯のオシャレをしてきました、
というのがヒシヒシと伝わってくるし、
それと同時にこのデートに対する並々ならぬ決意というものを思わせた。
片や相手の女性も、とても真面目そうで、
清楚なスーツっぽい服装をしていて、
決して嫌々来ている感じではなく、
自分を誘ってくれた男性に対し精一杯のオシャレで
それに応えようとしているのが伝わってくる。
お互い敬語で、しかも若干ぎこちない会話と空気、
そしてこれだけキチンとされた服装…。
『これは初デートだ…』
そう思った。
恐らく職場の同僚か何かで、男性の方から今日のデートを、
普段からあまり女性と話すのが得意でない彼にとって、
必死な思いで誘ったのであろう。(勝手な決めつけだが)
そして、初デートは無難にみなとみらいの109シネマズあたりで
映画でも観て、その後中華街でご飯を食べて現在に至る…
というコースだったのかも知れない。
そんな二人を乗せた電車は間もなく横浜へと到着する。
女性の方はこの駅で降りなければいけないようだった。
二人のデートの非情なる強制終了。
「終わり」までのカウントダウンが否応なしに始まる。
早く彼女の連絡先を聞かなければ。
ここを逃せば次のチャンスは無いかも知れない。
『頑張れ!』
『男だったらやらねばならない時がある。やらない後悔よりも、やった後悔だ!』
『失敗を恥じることはない。それに挑戦しなかったことが恥なのだ!』
そのやりとりを見ている俺は(別に聞き耳を立てていた訳ではなく、すぐ隣りで繰り広げられてるので仕方ない)すっかり男性の「サポーター」と化し、思わず両手の拳にも力が入る。
やっとのことで、汗をかきながら彼女の携帯の番号とアドレスを聞く。
そして、震える指で懸命に携帯に登録する。
「間もなく横浜、横浜です。お忘れ物をなさいませんよう、お手回り品をご確認下さい」
無情にも、そこへ割って入るように車掌のアナウンスが流れる。
そのことが更にプレッシャーになったのか、
ますます指は震え、何度も何度も打ち間違えては直す彼。
もう時間が無い。
と、そんな危機的状況の中、火事場の馬鹿力というか、
虚仮(こけ)の一念岩をも通すというか、
彼の潜在能力が覚醒したようで、
まるでそのアナウンスがキッカケになったかの如く、
ウソのように指の震えが止まり、目覚ましいスピードで
無事に携帯への登録を完了した。
その指さばきのあまりの見事さに、
そして見違えるような覚醒っぷりに俺は思わず息を飲んだ。
そうなのだ。男は好きな女のためなら何だって出来るんだな、
まざまざと見せつけられる思いだった。
横浜で降りて、ホームから彼に向かって周りの目も気にせず
笑顔で手を振る彼女…
そして、車内から恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに、
周りを気にしながら小さく手を振ってそれに応える彼。
本当に、あいのりとかテレビの世界だけでなく、
こんな身近な場所にもこうしたドラマって転がってるんだな。
何だかとても良いものを見せて頂いたような、
ふんわりと幸せな気持ちになって俺も電車を降りたのであった。
それにしてもあのカップル、今頃どうしてるのかな…
今でも時々ふと思う。
出来れば「あいのり」でキスして帰るカップルみたいな、
幸せな夫婦になってくれてたら嬉しいんだけどな。
二人の恋の始まりを見せて頂いた者としては。
などと、電車に乗るカップルを見るたびに、
ついつい余計なことを考えてしまうのであった。